近世のガラス 01

窓ガラスと工芸ガラスの分岐

建築物にガラスが使われるようになる。いわゆる「窓ガラス」である。

窓にガラスをはめ込むことは、かなり試行錯誤されてきていた。まず、平らで透明なガラスを作ることが難しい。
紀元前ローマでは、平らな型に溶けたガラスを流し込んで作っていたが、分厚く、厚さも均一ではなかった。しかし建築物には窓ガラスとして取り入れられていたようだ。透明なものでもなかった。

この当時のものは、型に流しっぱなしだったため片面は平らで、片面は波打っていることもあったらしい。また、気泡も入りやすかったようだ。冷たい冬の朝に見かける、分厚い氷をはめ込んだようなイメージが頭に浮かぶ。

4~7世紀ごろになると、吹きガラス製造から遠心力を利用し平らに広げていく「クラウン法」があった。
しかし、遠心力を利用するため厚みは均一ではなく歪みや屈折もあり、当時はビール瓶のような小さなガラスしか作れなかった。これを鉛の枠でつなぎ合わせた窓を「ロンデル窓」と呼ぶ。「クラウン法」で作られたガラスは、その製造法から中心部分が出っ張ってしまっていたようだ。
後の時代になると職人の腕も上がり、一枚の大きく丸いガラスが作られるようになった。それを四角くカットし、窓ガラスとして利用していた。景色を楽しむことは難しいが、同じガラスは二つとない個性的なガラスだったようだ。

くるくる回して徐々に大きく薄くしていくため、渦を巻くようにゆがみや、中心から広がる僅かな「波」があったのだろうと思う。そういう窓がはめられていたと思うと、少し不思議に感じる。

それから後、再び、鋳型方式の板ガラスが製造される。「ド・ヌーの鋳造法」である。
これは、鋳型に溶けたガラスを流しいれ、金属のローラーで表面を平らにするものだ。しかし、「ローラーをかけた跡」が残るため磨く必要があった。磨くにはとても手間がかかっていたが、この技術に錫箔を貼付ける等して、フランスで鏡が製造された。この鏡は大きく、全身を映し出すことができ、ヨーロッパで大ブームを起こした。ガラスと言えばヴェネチアだったが、鏡はフランスが独占していたようだ。

ガラスを磨いていた、というと不思議になる。細かな傷がつく印象が強いため、「曇りガラス(すりガラス)」のイメージが強い。そんな傷が一目ではわからないレベルまで丁寧に磨く必要があったとしたら、ずいぶん手間がかかったのだろうと思う。
しかも、その過程から現在の鏡と遜色ない「鏡」ができあがったのだとしたら一層不思議だ。

1830年に今度は「円筒法」がイギリスで確立された。長い円筒状のガラスを作った後、切り開き、熱しながら板状に広げるものだ。また、薪や木炭が石炭に代わり、ガラスの溶解技術も大きく進歩した。職人の技術が大いに必要だったが、このあたりで、板ガラスと工芸ガラスはまったく別物として扱われるようになった。(次のページへ続く

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